エッセイ・日記


2019.1.2 今年の初しごと  皇居参賀、箱根駅伝

 

毎年のことだが、1月2日はビールなどを飲みながら箱根駅伝を見る(テレビで)のが常であった。今年はちょっと様子が違った。平成最後の機会ということで、皇居へ新年参賀に出かけることにした。自宅を6時30分に出て、大手町に7時50分着、地下鉄から二重橋方面に上がろうとしたが、人一杯で動かない、なんとか地上に出て分かった、箱根駅伝のスタートにぶち当たったのだ。多くの応援団の声、歌が凄い!若い女子の躍動に目を見張る!数分後選手たちの集団が南に駆け抜けて行った。

 

2回にわたる手荷物検査とセキュリティチェックを経て、やっとのこと待機場所に整列できたのが8時40分、その後立ちぱなしで待たされ、やっと列が動き出したのが9時55分、普通は見るだけの二重橋を通り、長和殿に着くと、すでに両陛下以外の皇族、宮様が手を振ってお出迎え、間もなく両陛下がお出ましになると、万歳と振られる旗で全く目的の方々が見通せない。しかし陛下のお言葉がはじまると周囲が穏やかになったので、この時とばかり、シャッターシャンス、15秒程度か、背伸びしつつなんとか撮影もできた。

 

マイクを通じてだが、「新年 おめでとう」と言っていただけた。今年もいい年になりそうだ。                            (「国内旅行」に参賀の写真集あります)

 


「老人と山」                             山爺

「老人と海」は、老人の根性と沈着と悲哀と諦めを書いた、ノーベル文学賞の決め手となったヘミングウエーの名作である。何度か感動をもって読書した(日本語訳だが)のを思い出す。

 

 当たり前の話だが、齢はとりたくないものである、気持ちはまだ若いんだなどと思いつつ、身体はもうついていけない、すぐに物忘れし、思い出せず、痴呆が間近に迫ってきている(と感じている)。

 

 自分は、勝手に「山爺」と称して、山登りをライフワーク?いやラストワークとしている。今年は7座(去年は8座)の百名山を再登した。今年の無雪期登山の最後(ハイライト)として、常念岳(2857m)を選んだ。10月25日、安曇野から一の沢まで車で。さて、駐車場から頂上まで(8.2km)上り8時間05分(13300歩)下り6時間10分(20800歩)かかったが、前回(2003年)では、上り5時間08分、下り3時間57分だった。

 

いかに体力が減衰して来ているかがデータから判然と分かる。他の山山の場合も同様の傾向であり、かなり頑張ったつもりだが、如何ともし難い。

 

苦しい言訳だが、齢をとると、すぐしんどくなり、で 休みが多くなり、足が上がらず、すぐ石や根っこにけつまずくようになる。(でもこけ方はかなり上手になったが。)このようなことは、承知の上で(むしろ諦め気味に)来年からも頑張ってゆきたい。

 

ちなみに来年は、是非とも(必ず)穂高岳に再登したい(今年登るのを予定してたが果たせなかった、が 今回の常念岳からその雄姿に接し、その意をさらに強くした。)

 

富士山大好きの山爺は、昨年(6回目)の高齢登拝者番付が238番だったが、今年(7回目)の番付は12月に発表されるが、さらにどれ位昇格されてるか楽しみにしている。

 


2018.7.10  汽笛一声新橋を、、、

♪汽笛一声新橋を、、、♪で知られる、日本鉄道発祥の地は新橋と横浜でした、新橋は今の汐留、では横浜は?現在の横浜駅ではなく、その次の桜木町駅でした、ご存知でした?

新橋駅は、駅のすぐ前の広場に、機関車が常置されていたりして、皆周知されていますが、横浜サイドはどうでしょう、ということで、横浜、桜木町にやってきました。

現在の桜木町駅の50m南あたりにある公園らしい一角に、三角柱の鉄道発祥の地の記念碑がひっそりと、寂しく設置されていました。(上記写真左)

その裏面には、以下のような興味深い記述がありました。

 

鉄道列車出発時刻

上り 横浜発車 午前八字 品川到着 午前八字三十五分

(当時は時を字としていたのか)

    (以下 略)

下り 品川発車 午前九字 横浜到着 午前九字三十五分

    (以下 略)

賃金 車ノ等級 上等  片道  壱円五十銭

           中等  同   壱円

          下等  同   五十銭

(実際は新橋―横浜間を53分要したとする記録もあるが、それでも当時としては大変なスピードであった)

 

また、その記念碑の近くには、当時の横浜駅駅長室跡を記す銘板(原標)がある(上記写真右)。どこにあるかナ? 探してみていただきたい。                                                                          山爺

 


2018.6.7   「新聞」やめました           山爺

時間的にも、能力的にも我が処理が及ばず、ゴミ屋敷化の大きい原因となりつつあるのが新聞購読という存在であった。またテレビ、PCなどのほか、最近ではスマホでも押し売り的に与えられ、情報多過で悩んでいるのも事実であり、以前から新聞は自宅での購読を止めてもいいのでは、と考えていた。

それまで新聞は、朝日と読売を半年毎に取っていた。50年以上も続いていたので、止めるに止められない、結局は今まで取ってなかった毎日を経験して、それを最後に止めようということにした。そして毎日の契約がこの5月一杯で終わり、とうとう新聞が来なくなった。そして一週間経った。

モリカケやタックル、シンガポールなどのニュース記事は、テレビ、携帯で十分取得可能。新聞小説や特集、論説等は、最初から諦めていたもので望んでも仕方ない。

影響は思わぬところから出てきた。全く予想しなかったことだが、あの邪魔者であったチラシが全く見られないのはちょっと寂しい。また新聞の本文(記事)よりも、PR(とくに旅行や書籍などの全面的な広告)とかテレビ番組を見たいとか、クイズ(数独など)を欲しがってる自分が居る。日常の当然だったことが途絶えると、こういう現象が起こるということだろうか。それらを解決する方策を見付けなければ、と思案している次第。

かって私たちは、映像(写真)で、アナログ(フィルム)からデジタルへの転身を経験したし、レコード盤からCDなどへの乗り換えにも驚いた。偶々近日のスマホでは、「30年後には、紙の新聞、書籍などは100%存在しえない」との情報が出た(論文か?)。紙関係の株が下がり続けているのだそうだ。

とすると、我が行為は、それらを先取りしていることかもしれないゾ。